かりんとう専門店やまわき

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かりんとうづくりのはじまり1

かりんとうづくりのはじまり2

かりんとうづくりのはじまり3

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かりんとうづくりのはじまり

昭和32年、東京都豊島区要町の地で、
山脇のかりんとうづくりが始まりました。

東京といっても、当時は畑や林が多くて民家や店舗はまばら、道路も舗装されておらず、子供たちが元気に走り回るのどかな風景が広がっていました。工場はまだ小さく、狭いスペースにかりんとうを揚げる直径1mほどの釜を3つ、蜜を焚く釜を1つ並べてのかりんとうづくりです。ミキサーなどの機械類もない時代、木桶を使って手ごねで生地を作ったり、蜜を焚いたり、油で揚げたりする作業もすべて職人の手によるものでした。
ここで山脇が作っていたのはオーソドックスな「黒糖かりんとう」です。当時はイースト菌ではなく、重曹を使ったものが主流だったため、今よりも堅い食感のかりんとうでした。職人4~5人で、1日に製造できるのは一斗缶にして20~30缶ほど。その作りたてを毎日、自転車で問屋まで売りに行っていました。

新しいかりんとうの開発

新しいかりんとうの開発

こうしてはじまった山脇のかりんとうづくり。売れ行きも順調で、軌道に乗ってきたかのように思われましたが、かりんとうには夏場に売れないという弱点がありました。確かに、甘みが強いかりんとうは夏場には食べにくいものです。そこで、夏場でもさっぱりと食べられるかりんとうが作れないかと、当時の社長によって考案されたのが「松葉かりんとう」でした。生地を松の葉のように細長くし、薄く上品な甘さの蜜をかけることで、口当たりが軽く夏でもさっぱりと楽しめるかりんとうが生まれたのです。松葉かりんとうは、またたく間にヒット商品となりました。

続いて山脇が開発に乗り出したのは、現在の極上黒糖かりんとうにもつながる商品です。イースト菌の普及、発酵時間の違いから、関東地方で作られていたかりんとうは、関西に比べてやわらかい食感ではありましたが、もっと洋菓子のように、サクッとやわらかい食感のかりんとうがつくれないか?との思いがありました。ヒントとなったのは、カステラの生地でした。カステラは卵をたっぷり使うことでふっくらとやわらかい食感を生み出しています。そこで、かりんとうの生地にも卵を加えることを思いついたのです。その結果、今までにない、やわらかい食感の生地が完成。卵を使ったかりんとうということで、「玉子かりんとう」と名付けられ、こちらも大ヒット商品となりました。
黒糖かりんとうに加え、新たな商品のヒットにより、東京の工場だけではだんだんと生産が追いつかなくなっていきました。

そこで、新たな工場の建設を決意します。候補地はいくつかありましたが、当時の社長の故郷であった滋賀に建設を決めました。そこには、かりんとうづくりに適した豊かな自然があったことに加え、生まれ育った故郷に恩返しがしたいとの強い思いがありました。そして昭和43年、滋賀工場の操業を開始し、関東だけでなく関西方面へも販路を広げる足がかりとなり、より多くの人々に山脇のかりんとうを届けることができるようになったのです。

受け継ぎながらも新しく

受け継ぎながらも新しく

食べる人だけではなく、贈る人、作る人も、
幸せになれるかりんとうを。

1957年、東京ののどかな地で生まれたかりんとうづくり。
それ以来、大切に培い、変わらずに守り続けてきた思いは今もなお、山脇の素材の風味豊かな美味しさを支えています。
また、今までにない洋菓子のような味わいの「レーズンかりんとう」をはじめ、半世紀に渡る歴史を礎にしつつ、それに甘んじることなく、かりんとうの新しい魅力をお届けすることにも力を入れています。
昔ながらの安心で信頼される味わいと、まだ出会ったことのない新鮮な味わい。
守りながら、変わりながら、これからもかりんとうの素晴らしさを伝え続けます。

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